悲運の闘将ラッシャー木村、耐えぬき続けた人生――■小佐野景浩の「プロレス歴史発見」

プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回は国際プロレスのエース「ラッシャー木村」!! 日本初の金網デスマッチ、新日本では国際軍団として猪木の首を執拗に狙い、全日本プロレスではジャイアント馬場との義兄弟タッグを結成。名物tなったマイクパフォーマンスで前座を温めた木村さん。その流浪のプロレス人生を振り返る!

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――今回は“金網の鬼”、“闘将”と呼ばれたラッシャー木村さんについておうかがいいたします。

小佐野 私が木村さんと初めて接点ができたのは、月刊時代の『ゴング』ですね。木村さんがエースだった国際プロレスが崩壊したのは1981年、昭和56年のこと。まだ『ゴング』が週刊ではなく月刊ということもあり、記者ではなく編集者の立場ですから、知ってる選手とは喋るんですけど、木村さんとは話す機会はなかったんです。ましてや木村さんはボクより20歳も年上ですからね。ハタチの私が話しかけられるわけがないんですよ(笑)。

――世代という壁があったんですね。

小佐野 親しくなったのは昭和58年春の2月か3月かな。その頃の木村さんは国際軍団として新日本に上がっていた。猪木さんと“1vs3ハンディキャップ”をやっていた頃で、プロレスファンから一番憎まれていた時期ですよ。西伊豆に雲見というところがあるんですけど、昔から国際プロレスはそこで合宿を張っていて、国際軍団もそれに倣っていたんです。木村さん、(アニマル)浜口さん、寺西(勇)さんの3人の合宿。そこに私は『月刊ゴング』として取材に行って。

――昔のプロレスってよく合宿取材がありましたよね。

小佐野 あのときの国際軍団の合宿は、猪木さんとの2回目の“1vs3”の宣伝を兼ねたものだったという記憶がありますね。

――合宿のお金は木村さんたちが持つんですか?

小佐野 そこは昔から国際が使っていたから、スポンサー絡みだったのかなあ。たとえば新日本は昔から土肥温泉で合宿を張っていたけど、そこは新日本のスポンサーでした。

――スポンサーとして、プロレスラーに宿や食事を提供してるんですか?

小佐野 変な話、町おこし的な感じになるわけですよね。猪木さんが土肥温泉で地引き網をやったりするし、ただ泊まりに行くんじゃなくて、そこにマスコミも訪れて記事になれば、その宿の宣伝になるじゃないですか。あの当時はいまみたいに旅行情報をネットで調べるわけにはいかないしね。

――新聞記事に影響力があったんですね。

小佐野 木村さんのときは何日間が合宿をしてて、いつが取材日と決まりはないんですよ。こちらの都合がいい日に取材に行くかたちで。取材に行けば、ちゃんと絵作りしてくれたし、私が行ったときはほかの取材は『東スポ』のカメラマンだけ。私は日帰りするはずだったんですが、練習後の宴会で潰されてね……(笑)。

――まあ、そうなりますよね(笑)。

小佐野 気がついたら浜口さんの部屋だった(笑)。それくらい気持ちよく飲ませてもらったし、国際軍団の方々は本当に気持ちがいい人でした。寺西さんはお酒を飲むと面白い人。浜口さんは気を遣う人。浜口さんの部屋で寝たときも、『東スポ』のカメラマンの方は私の先輩だから「他社の先輩には気を遣うだろ。俺の部屋で寝なさい」と。

――凄い気遣いですねぇ。

小佐野 木村さんは本当に無口な人。どれくらい喋らないかといえば、アメリカ遠征時代もほかのレスラーとまったく口を利かなかったそうです。あるときアメリカで試合もしたドリー・ファンク・ジュニアが来日したので「おひさしぶりです」って挨拶したら、ドリーが「お、おまえは口がきけるのか!?」って驚いたくらいだったとか(笑)。

――ハハハハハハ!

小佐野 ちなみに木村さんがいなかったら、浜口京子もいなかったですからね。浜口さんが奥さんの初枝さんと結婚するきっかけを作ったのは木村さん。初枝さんがやってた小料理屋『香寿美』は、もともとは初枝さんのお母さんがやっていた店で。そこの板さんが木村さんの相撲時代の兄弟子なんですよ。

――そんな繋がりがあったんですね。

小佐野 木村さんは浜口さんより先に『香寿美』に通っていた。で、木村さんは金網デスマッチの2戦目をオックス・ベーカーとやったんですよ。場所は台東区体育館なんだけど、木村さん、足を折ったんですよね。それで台東体育館の近辺に入院したんだけど、病院にいても退屈だから外に飯を食いに行こうと浜口さんを誘った。それで向かった先が『香寿美』なんです。浜口さんは『香寿美』で働いていた初枝さんに一目惚れをして、浜口さんはそのあともひとりで通って……という。木村さんが足を折らなかったら京子ちゃんは産まれてないんですね(笑)。

――話は戻りますが、国際軍団はよく“1vs3ハンディキャップ”をやりましたよね。メンツに関わる形式じゃないですか。

小佐野 屈辱的な試合形式だよね。3人でようやく一丁前として扱われたわけだけど、木村さんたちは大真面目に取り組んでいた。そのプロ意識は凄いですよ。ファンからは「帰れ、帰れ!」と罵声を浴びながらね。それに木村さんは動物好きで犬を飼っていたんだけど、プロレスファンが自宅に物が投げ込むから、犬がノイローゼになっちゃってね……。


――それでも自分のたちの役目を真正面からやりきって。

小佐野 彼らとしてはそれが生きていく道だから。真摯に取り組まないと生きていけないわけですよ。

――なにしろ木村さんは40歳にして団体崩壊を味わってるわけですし。

小佐野 国際が潰れたとき木村さんが新日本プロレスに行ったのは、自分の意思じゃないんだけどね。国際プロレスの社長だった吉原(功)さんの意思。吉原さんは国際がダメになることはわかっていたわけです。で、選手たちの今後の道筋をつけるべく、新日本と国際の対抗戦を蔵前国技館でやろうとしていて発表もしていた。そこには木村さんはもちろんのこと、阿修羅・原さんなんかも出る予定で。でも、その対抗戦に行き着く前に国際プロレスは潰れてしまった。そんな流れから木村さんたちは新日本に上がったんですけど、マイティ井上さんたちは「国際が潰れるまで一生懸命やってきたから、これから好きに生きさせてほしい」ということで全日本を選んだんです。

――木村さんの新日本登場は“会社命令”的なところがあったんですね。

小佐野 木村さんはそれまでの人生も自分のチョイスじゃないですから。本当はプロレスラーになりたかったのに、相撲部屋に見学に行ったら、新弟子希望と間違えられ、ちゃんこもご馳走になったから引くに引けず(笑)。

――ちゃんこの代償!(笑)。

小佐野 木村さんは身体は大きいから、相撲でも活躍しちゃって十両目前まで昇進したんですよ。でも、十両になっちゃうと簡単にはやめらなくなってプロレスに行けなくなるから、そこでやめたんです。それで日プロに入ったんだけど、豊登さんが作った東京プロレスに移った。なんでそうしたかといえば、木村さんは豊登さんの付き人だったからなんですよ。

――そこも自分の意思ではなかったんですね。

小佐野 その東プロも潰れる。そのとき木村さんはマサ(斎藤)さんと一緒にアメリカに行こうとしてたんです。マサさんと木村さんは日プロでほぼ同期。木村さんのほうがちょっと早いのかな。でも、木村さんは吉原社長に説得されて、国際に行くことになったんですよ。

――ここまで来ると凄いですね、木村さんの人生……。

小佐野 もっといえば、のちに新日本からUWFに移ったのは新間(寿)さんの存在ですよ。新間さんは東京プロレスの営業部長だったから「木村さん、もう一度自分とやってください。木村さんの力が必要なんです」ということでUWFに移ったんですよ。

――なるほど(笑)。お願いされたら断られない性格なんでしょうね。

小佐野 常に自分を抑えている感じなんです。普段から寡黙な人でいつもニコニコしたし。プロレスラーなんて、我が強くないと普通はやっていけないですよ、とくにあの時代なんかは。

――「俺が、俺が!」じゃないと上には行けないですよね。それなのに国際のエースになるなんて。

小佐野 やっぱり身体も大きかったし、特異な存在感はあったんだよね。木村さんは日本で初めて金網デスマッチをやった。「デスマッチをやったらプロレスはおしまいだ」と言われた時代に木村vsドクターデスの金網デスマッチをやったんです。

――普段自己主張しない人が。

小佐野 あとストロング小林さんのIWAヘビー級王座に挑戦してるんです。日本人大物同士の団体内のタイトルマッチがタブーとされていた時代……1973年7月に、初めてそれを破ったのが国際なんですよ。

――あの時代のプロレスは、たとえば猪木さんと馬場さんが同じリーグ戦に出場しても、日本人対決のカードは組まれなかったんですよね。

小佐野 日本人同士は対戦させなかった。あくまでも日本人vs外国人。なぜそうなっていたかといえば、やっぱり力道山vs木村政彦の事件があったからですよね。

――ああ、あのショックをひきずっていたんですね。

小佐野 あの試合はプロレス界に大きな禍根を残してしまったので、日本人対決は回避されてきた。そんな中、国際はタブーと言われていた日本人エース対決をやったんです。

 

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