佐藤嘉洋「判定問題のせいで闇に葬り去られていますけど、魔裟斗戦はMAX史上最高の盛り上がりだったと思います」

全日本キック、K-1MAX、Krushとゼロゼロ年代の立ち技シーンの最前線で戦い続けてきた佐藤嘉洋ロングインタビュー。「日本人最後の大物」と呼ばれたキックボクサーが味わった“テレビ格闘技”の現実とは――!?  

 

 

――佐藤選手って「地味」と言われがちですけど、試合で手数は多いし、リング外のニュースも多かったりするしで、そこまで地味だとは思わないんですよね。
 

佐藤 それは谷川(貞治)さんのせいじゃないですかね。2005年に初めてK-1MAXに出たとき、解説の谷川さんから「佐藤選手は地味なんですよね〜」と言われ続けたので(苦笑)。


――これはもうプールに蹴り落とすしかないですね(巌流島イズム)。


佐藤 人間って一番最初のイメージの刷り込みが覆させられないと言われますよね。まあ21歳の頃からイタリアでも「いぶし銀」と言われてたんですけど(笑)。


――「地味」と「いぶし銀」のあいだには深い溝がありますけど(笑)。


佐藤 よく「華がない」と言いますけど、「じゃあ華ってなんだ?」って話ではありますね。自分の場合、日焼けしてヒゲを生やしたら「オーラが出た!」とか言われたりしましたからね。「オーラってそんなもんで出るんだ!?」って(笑)。石井館長からは「日焼けをしなさい」と言われていたんですけど。


――そんな館長アドバイスがあったんですね。たしかに長州力のサイパン合宿は見栄えを良くするための日焼け目的だったりしますね。


佐藤 いちおうハダカの職業なので見栄えを良くするのはわかるんですけど。でも、みんながみんな黒いのはどうなのかなって(笑)。


――魔裟斗さんの登場以降、日焼けして短髪で下の名前だけをリングネームにする立ち技の選手が増えましたね。


佐藤 なんかの会見のときに魔裟斗さんとコヒさん(小比類巻貴之)がいて2人とも黒いじゃないですか。それまで肌が白かったボクも黒くしたからオセロでひっくり返ったみたいになりましたね(笑)。


――佐藤選手はキックボクシングを徹底してやったあとにK−1に参戦して“興行と競技”の波に揉まれたイメージが強いですね。


佐藤 そうですね。魔裟斗さんとコヒさんは別格として、ほかの選手は世界と戦う前にK−1に上がったじゃないですか。ボクの場合は世界で戦ったあとにK−1に行ったから珍しいパターンではありますね。「日本最後の大物」というキャッチフレーズでK−1に参戦しましたけど、そういった評価は嬉しかったですよ。


――佐藤選手がキックボクサーになったのはどういうきっかけなんですか?


佐藤 ボク、プロレスが好きだったんですよ。小学生の頃、テレビで金曜日に全日本、土曜日に新日本、日曜日にWWEがやってて毎週見てたんですけど。そこでプロレスの知識が止まってるんですよね。蝶野(正洋)がエゴイスト集団になったときくらいまでですかね。


――というと、90年代中期くらいですね。


佐藤 それとボクシングが好きで勇利アルバチャコフのファンだったんです。小学生の頃、勇利と同じ髪型にしてたくらいですから(笑)。


――ハハハハハハ!


佐藤 ただの角刈りですけどね(笑)。で、中学2年のときにキックボクシングを始めてから、プロレスは見なくなって。


――キックはどういう理由で始めたんですか?


佐藤 畑中清詞が名古屋でボクシングジムを出すということで友達と一緒に通う話をしてたんですけど。ジムができる前にそいつと殴り合いのケンカをしちゃってボコボコにされたんですよね(笑)。で、「コイツと一緒のことをやっとったら強くなれない」と思って、キックボクシングジムの名古屋JKファクトリーに入ったんです。「奴がボクシングで手だけなら、こっちは足も使うキックだ!」という感じで。


――なるほど。とくにキックに憧れたわけじゃなかったんですね(笑)。


佐藤 全然違います(笑)。ジムも家の近所にあったし、たまたまの巡り合せなんですよね。そこでプロの選手が指導していることも知らなかったですし。行ってみたら小森会長の人柄や、先輩たちの凄さを知ってキックにハマっていった感じで。「こんな世界があるのか!?」と。


――学校が終わったら毎日通う感じですか?


佐藤 いや、中学の頃はあんまり真面目には通ってなくて週1〜2回ですね(苦笑)。キックをやってるとカッコつけたかっただけで、そこまで「強くなりたい」とは鬼気迫ってなかったんです。だんだんハマっていった感じですね。で、高2でグローブ空手の全国大会で優勝したんです。


――あら。センスあったんですね。


佐藤 そうなんですよ!(笑)。その大会はオープンなんで大人も参加してたんですよ。そんな中で優勝したから『格闘技通信』に「おそるべき16歳」という記事が載りましたから。嬉しかったですよね。学校中で話題になりましたし、翌年も優勝して連覇して。


――エリートじゃないですか!


佐藤 だから地味地味と言われてますけど、じつはスーパールーキーなんですよ。鮮烈な記録も作ってるんです。この記事でボクのイメージを払拭してくださいよ(笑)。


――ハハハハハハ。


佐藤 強くなれたのはもちろん小森会長の指導のおかげでもありますし、佐藤孝也さんや鈴木秀明さんといった偉大な先輩がいたからで。先輩たちをとにかく必死に追いかけていけばいいんだなって。


――高校当時は将来はどう考えてました?


佐藤 もう最初からキック一本で行くと決めてましたね。


――デビュー当初からキックで食べていくと。


佐藤 18〜19歳のときに団体内で問題が起きて、ジムの会長、選手全員で話し合いをしたことがあったんですよ。ウチの会長から「いまの現状ならキックだけで生活していくことはできない。暮らしていくことを考えたら別の道に行ったほうがいい」と言われたんですね。ボクはキックで暮らしていくつもりだったから「食べていける可能性はゼロパーセントなんですか?」って聞いたら「ゼロではない」と。だったらキック一本でやっていこうと。


――そこは自信もあったんでしょうね。


佐藤 なんとなく自信はあったんですよね。周りの同期たちはその会議に関しては後ろ向きで「これからどうしよう……?」という感じでしたけど。


――MMAもそうなんですけど、キックボクシングも基本的に何かで働きながら……という選手が多いわけですよね。


佐藤 そうですね。いまでもキックだけで暮らしてるのは10人もいないんじゃないですかね。だから当時はすべてを利用してやろうと思いました。親もある意味で利用したし、支援してくれる方にも甘えましたし。結婚するまで実家を出ませんでしたから。


――実家だと一人暮らしと比べて、家賃も食費も節約できますね。


佐藤 最高の練習環境を作りたかったんですよ。一人暮らしだと炊事洗濯は大変になるし、自分でちゃんとやってる選手もいますけど、ボクはその時間を使ってもっと練習に打ち込みたかったんです。嫁さんが出産で実家に帰ってるときにはひとりでやりましたけど、大変な作業ですよねぇ。これをひとりでやっていくとなると、とっくに引退していたかもしれない(笑)。


――ハハハハハハ! しかし、よく親御さんはキック生活を認めてくれましたね。


佐藤 親も自分の可能性に賭けていてくれたところはあったんですよね。あと子供がここまでハマるものがあると思わなかったし、小森会長や先輩の人柄を知っていたので、このジムにいれば人間的にも成長するだろう、と。


――あの当時キック一本で暮らしてる選手はいたんですか?


佐藤 先輩の鈴木さんや佐藤さんはスポンサーが付いるときは一本でやってましたね。


――やっぱりスポンサーは重要なんですね。


佐藤 スポンサーはなくてはならないですし、感謝しかないですよね。スポンサーの方から言わせると「お金があっても得られないものを格闘家は見せてくる」と言うんですけど、ボクはいつももらってるばかりで申しわけない気持ちが強くて。


――戦っている姿を見せるしかないですよね。そうなると、人付き合いも重要になってくるんじゃないですか。


佐藤 そこはスポンサーとか関係なく、あんまり自分の価値観を他人には押し付けないようには心がけてるんですけど。「ボクはこういう考えなんですけど、あなたはそうなんですね」という感じのスタンスで。やっぱり人間関係のトラブルは回避したいので。


――いまはSNSで誰でも発言ができるから、“議論チンピラ”みたいな人が増えてますし。


佐藤 最近はすぐに「論破」とか言うじゃないですか。論破なんて自分の気が晴れるだけで誰も救われないですよ。


――論破という言葉も変質してますよね。一方的な勝利宣言になったり。


佐藤 有名人に一方的に議論を仕掛ける一般人もいますからねぇ。無視すると「論破!」って(笑)。ボクは他人と話をするのは好きなんです。自分とは違う考えを知りたいというか。それで自分の考えが否定されて嫌な気持ちになるときもあるけど、それはそれで勉強にはなります。


――話を戻しますが、佐藤選手は海外を主戦場にしていきますね。


佐藤 海外に出始めたきっかけは、内田康弘さんが当時の全日本のチャンピオンだったんですけど。その内田さんをKOしたオランダ人に勝ったんですよ。それでヨーロッパでボクの評価が上がって、日本を飛び越えてドイツでタイトルマッチをやることになって。そこで運良く勝っちゃったんですよ。一昨年にヨーロッパで試合をしたときもキック関係者から「あのドイツの試合を見てたよ」と言われて嬉しかったですね。


――21歳で海外を戦い歩くっていい経験になりますね。


佐藤 いやあ、ホントにいい経験ですよ。ドイツの試合のときはメッチャ寂しかったですよ。田んぼの真ん中にあるようなところにホテルがあって。当時付き合っていた彼女がドイツに行く前に手紙をくれて。あんなにホームシックになるとは思ってなくて、その手紙を何度も何度も読み返しましたね(苦笑)。


――国外で戦うとナショナリズムが湧いてくるといいますね。


佐藤 ああ、そうですね。それまで君が代は好きじゃなかったんですけど、異国の地で聞くと、身体中の血が奮い立ちますよね。ああ、やっぱりボクは日本人なんだなあ……って。


――ドイツ以外の国でも戦われたんですよね。


佐藤 そのあとオランダ、イタリア、またオランダ、イタリア、タイ、もう1回タイに行ってイタリア……それでK−1です。K−1以降も含めてイタリアには5回行ってますね。


――イタリアの格闘技事情ってどのようなものなんですか? かつては新日本プロレスもイタリアで人気があったりしたそうですけど。


佐藤 6000人は入ってましたかねぇ。日本と違って基準が甘いのか、地方のローカルテレビ局でもキックの番組が流れていたみたいで。だから試合翌日に街を歩くと声をかけてもらいましたよ。やたらイタリア人からFacebookに友だち申請のメッセージが入ったり。試合はクソ判定でボクが負けたので「おまえが勝ったよ!」とかメッセージがいっぱい来て(笑)。


――けっこう熱いファンが多いんですね。


佐藤 あとイタリアの特徴をいえば、どこに行ってもメシはうまかったですね。どんな田舎の店に入っても石窯があるんでピザは安くてうまくて。イタリアってスタバがないんですよ。カプチーノが200円で飲めるから。


――オランダはやっぱり危険なイメージそのままですか?(笑)。


佐藤 オランダはメシがマズイですねぇ。かなりイカれた国でマリファナも売春も合法ですし、住んだら廃人になるんじゃないかなって(笑)。


――間違いないです!(笑)。そういった海外経験を経てK−1MAXに参戦することになるわけですね。


佐藤 そう、それでK−1に出る前に、一回絶望するわけです、ボクは。キックの世界では完全にトップになって、ルンピニースタジアムのチャンピオンまで倒して、世界の誰もが認める選手になったんですよ。そこまで実績を積み上げたのに、キック一本でやっていく道が閉ざされた感じがしたんですよね。「ここまで勝ち続けて、こんだけか……?」と。

 

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